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番外編『世界の補助金から』

家を買いやすくする補助が、家を高くした?——英国「ヘルプ・トゥ・バイ」の10年

執筆:小嶋 譲司株式会社TOE 代表取締役 読了 約14情報時点:2026年9月17日
家を買いやすくする補助が、家を高くした?——英国「ヘルプ・トゥ・バイ」の10年

結論

  • 英国のヘルプ・トゥ・バイは2013年に導入され、5%の頭金で住宅を購入できる仕組みを初めて購入する層に提供した。しかし住宅価格の人為的な引き上げをもたらすという批判を受け続け、制度を監督するはずの英国銀行には実際の拒否権が与えられていなかった。
  • フェーズ1開始初年度(2013〜2014年)に建設・販売された新築住宅の5分の1がこの制度を通じて購入され、LTV90%超のローン商品数は2倍以上に増えた。
  • 2024年の研究によれば、住宅供給が深刻に不足するロンドンでは、この制度が住宅価格を押し上げたにもかかわらず、新規住宅の建設件数には何の影響も与えなかった。

「最大の介入」と呼ばれた制度の誕生

2008年のリーマン・ショック後、英国の住宅ローン市場は急激に収縮した。銀行は貸し渋りを強め、LTV(融資対価値)比率の高いローン商品——つまり頭金が少なくて済む商品——はほぼ消滅した。頭金を十分に用意できる富裕層か、親の支援を受けられる若者でなければ、住宅の購入は現実的に困難な時代になっていた。

この「住宅取得困難」という社会問題に対し、当時のキャメロン政権がとった解は需要側への直接介入だった。2013年の予算演説で財務大臣ジョージ・オズボーンが発表したヘルプ・トゥ・バイは、「1980年代のライト・トゥ・バイ以来、最大の政府による住宅市場への介入」と評された。

前身には初回購入者のみを対象とした「ファーストバイ」という制度があったが、ヘルプ・トゥ・バイはその対象を住み替えを検討する人にまで広げた。プログラムは大きく2つのアプローチから出発した。政府が直接出資する「エクイティローン(持分ローン)」と、民間ローンに政府が保証人となる「モーゲージ・ギャランティー(住宅ローン保証)」だ。前者は「フェーズ1」として2013年4月1日に、後者は「フェーズ2」として同年10月に展開された。

この2つは表面上は同じ「住宅取得支援」でも、財政的な構造はまったく異なる。エクイティローンは政府が資金を直接出し、売却時には値上がり分も比例して政府に返す。住宅ローン保証は政府が資金を出すのではなく、民間金融機関がリスクを取りやすくするための「保険」の役割を果たす。同じ制度名で走るこの2制度の構造的な違いが、後の批判と混乱の一因にもなった。


制度の仕組み——6つのスキームの全体像

ヘルプ・トゥ・バイは一枚岩ではなく、性格の異なる複数のスキームから構成されている。

スキーム名概要対象・主な制限
エクイティローン(フェーズ1)購入者が5%の頭金、政府が物件価格の最大20%(ロンドン内は40%)を融資。最初の5年間は無利子新築のみ。イングランドでは£60万未満、ウェールズでは£30万未満
モーゲージ・ギャランティー(フェーズ2)5%頭金のローンに政府が保証人となる。制度開始時は5社、後に10社のプロバイダーが参加新築・中古問わず£60万未満の物件が対象
シェアード・オーナーシップ住宅協会を通じてヘルプ・トゥ・バイ以前から存在した共有所有制度ヘルプ・トゥ・バイに組み込まれた既存制度
ニュー・バイ新築物件を5%の頭金で購入可能にする新築限定
ヘルプ・トゥ・バイISA積み立てた口座に購入時の政府ボーナスが付加2019年11月に新規受付終了。ボーナスの請求期限は2030年
ライフタイムISAISAと同様だが、老後資金にも転用可能18〜39歳のみ対象

エクイティローンの核心——「5年間無利子」の設計

エクイティローンで最も注目すべきは、最初の5年間は無利子という条件だ。購入者は物件価格の5%の頭金と、政府融資分(最大20%)を除いた民間ローン部分だけ金利を支払えばよい。表面上の出費は大きく圧縮されるため、月々の返済負担は購入直後には軽く見える。

6年目以降は年利1.75%から始まり、小売物価指数の伸び率+1%ずつ上昇していく。この仕組みは購入者に「5年後に住宅価格がどう動いているか」「6年目以降の利子負担をどう賄うか」という長期的な試算を求める。初回購入者の多くが、この後払い部分の重さを十分に認識しないまま購入に踏み切ったと批判者は指摘した。

新築か中古か——スキームによる使い分けの意図

エクイティローンは新築物件のみに使える。モーゲージ保証は新築・中古を問わない。この差は意図的な設計だ。政府はエクイティローンを「新規住宅建設の需要喚起」ツールとして設計し、ハウスビルダーが参加するスキームに限定した。需要を新築市場に集中させることで建設活動を活性化させるという論理だったが、後述するようにこの前提は供給制約の強い地域では機能しなかった。


誰が購入したか——普及の実態と市場変化

フェーズ1が始まった最初の1年間(2013〜2014年)、この制度の浸透は目覚ましかった。建設・販売された新築住宅の5分の1がフェーズ1を通じて購入されたのだ。新築市場の需要の2割が政府の補助によって支えられている状態は、建設業者にとっては安定した需要源となる一方、制度への依存構造を生む。

ローン市場にも顕著な変化が生じた。フィナンシャル・タイムズは「明確な証拠」として、ヘルプ・トゥ・バイが稼働した最初の1年間に貸し手がより高いLTV比率を提供するよう促したことを報じている。LTV90%超の商品数は制度開始前と比べて2倍以上に増えた(2013〜2014年)。

この変化には2つの側面がある。一方では、頭金をなかなか用意できない若い世代や低所得層が住宅市場に参入しやすくなった。他方では、価格が下落したときに資産価値がローン残高を下回る「ネガティブ・エクイティ」に陥りやすいハイリスクなローンが市場全体で広がった。2008年の金融危機を経験した英国において、これは政策立案者が慎重に扱うべき変化だった。


「需要→供給」の連鎖——設計者の意図と現実のギャップ

オズボーン財務大臣が掲げた理論は、一見して合理的だった。「新築への需要を高めれば、建設業者はそれに応えて供給を増やす」というものだ。エクイティローンを新築限定にしたのも、この需要→供給の連鎖を狙った設計上の選択だった。

しかし2024年に発表された研究は、少なくともロンドンではこの連鎖が機能しなかったことを示している。住宅供給が深刻に制約され、価格が著しく高い大ロンドン圏では、ヘルプ・トゥ・バイは住宅価格を押し上げたものの、住宅建設件数には何の影響も与えなかった、と結論づけている。

なぜ供給が増えなかったのか。土地の取得難、計画許可の遅延、建設コストの上昇、熟練労働者の不足——これらは需要をいくら積み上げても短期間では解決しない構造的な制約だ。ロンドンでは開発可能な土地が特に限られており、新たな住宅用地の供給そのものが政治的・物理的に困難な状況にある。

結果として起きたのは次の経路だった。

【設計者が想定した経路】
補助 → 需要増 → 建設増 → 住宅取得機会の拡大

【ロンドンで実際に起きた経路】
補助 → 需要増 → 価格増(建設件数は不変)

建設業者の視点から見れば、需要が増えれば価格を上げて利益を最大化できる。わざわざ生産リスクを取って増産する必要はない。政策立案者が「建設を増やすインセンティブ」と見なしたものが、実際には「価格を上げるインセンティブ」として機能した。


批判——IMF、元総裁、経済学者の警告

ヘルプ・トゥ・バイへの批判は、制度発表直後から広範囲に及んだ。

**国際通貨基金(IMF)**は、制度が住宅価格を押し上げることで本来助けるべき初回購入者の住宅取得をかえって困難にする可能性があると指摘し、厳格な監視を求めた。補助が終われば購入者は「割高な物件」をローンで抱えたままとなる。その将来リスクへの懸念だ。

英国銀行の前総裁マーヴィン・キングも不安を表明した。政府が「英国銀行に制度の監視を委ねる」と表明しながら、実際には銀行に実質的な権限が与えられていないという構造への懸念だった。

産業経営者協会(Institute of Directors)のチーフエコノミストは同制度のモーゲージ保証部分を「非常に危険だ」と評し、「英国に必要なのは『買う支援』ではなく『供給する支援』だ」と言い切った。需要側への資金投入は住宅の数を増やさず価格だけを押し上げる。そして制度が終了すれば価格上昇が崩れ「破滅的な結果」をもたらしかねないと警告した。

批評家が繰り返し問題視したのは、「助ける制度が、助けられる人の手の届かない場所に物件を押し上げる」という逆説だ。補助を使って購入できた人は確かに恩恵を受ける。しかし補助を使えなかった人、またはタイミングを逃した人にとっては、制度が「上がった価格」だけを残す。


監視体制の構造的欠陥——拒否権なき監督者

価格上昇への懸念はオズボーン本人も認識していた。制度の監視役として英国銀行総裁マーク・カーニーに権限を委ねたことがそれを示している。カーニーは「銀行が市場を不安定化させていると判断した場合は制度を終わらせる」と約束した。表向きには制度に「ブレーキ」が装備されているように見えた。

しかし後にカーニー自身が認めたように、財務大臣から実際の拒否権は与えられていなかった。英国銀行の金融政策委員会が年1回の報告書を作成する「助言的役割」にとどまっていたのだ。

監視設計の要素実態
監視主体英国銀行(金融政策委員会)
付与された権限年1回の報告書作成(助言のみ)
拒否権なし(財務大臣が保持)
制度停止の条件明文化されていない
批判への実際の対応カーニーが「懸念を表明」するにとどまった

2014年1月、カーニーはダボス会議で住宅バブルへの懸念を和らげる発言をしたが、同会議では£60万の上限を少なくとも3分の1引き下げることを望んでいるとも伝えられた。ヘルプ・トゥ・バイがロンドンの急騰する価格の主因だという批判をかわす狙いがあったとされる。2014年2月にはカーニー自身が「ロンドンの価格上昇は主に富裕層の現金購入が要因であり、総裁として制御できる範囲を超えている」と述べている。

「監視されている」という形式は整えた。しかし実質的な制度停止権は政治家が手放さなかった。これはガバナンス設計の観点から見れば、批判を形式的に和らげるための構造だったとも評価できる。是正権限と報告義務を同一機関に持たせなければ、監督機関は「問題を観察し記録する機関」にとどまる。


制度の変遷——延長・縮小・終了の軌跡

ヘルプ・トゥ・バイは一度設計された形で固定されず、何度も修正・延長・縮小を繰り返した。

2014年:フェーズ1の延長 フェーズ1(エクイティローン)は当初2017年までの予定だったが、2014年の予算で2020年まで延長された。政権にとっては「機能している制度」の延命だったが、批判者にとっては「価格を上げ続けている制度を維持した」判断だった。

2016〜2017年:フェーズ2の終了 モーゲージ保証(フェーズ2)は2016年9月に、2017年は継続しないと発表され静かに終了した。新築・中古を問わず広く使えた制度が、より制約の強いエクイティローンより先に消えたことは象徴的だ。

2021〜2023年:エクイティローンの再延長と制度改革 エクイティローンはさらに3年(2021〜2023年)延長されたが、このとき重要な条件変更が加わった。対象者が初回購入者のみに絞り込まれ、地域別の物件価格上限が新設された。上限はイングランド北東部の£186,100からロンドンの£600,000まで地域によって異なる。

この変更は、ロンドンへの需要集中と価格押し上げへの批判を受けた対応とも読める。しかし上限を設けることで「上限以下の価格帯の物件に需要が集中し、その価格帯だけが押し上がる」という新たな歪みも指摘された。制度の縮小は批判への回答だったが、完全な解決ではなかった。

2022年:新規申請受付終了 イングランドのエクイティローンは2022年10月31日に新規申請受付を終了した。スコットランドではそれより早く、2021年2月5日に新規受付を停止している。


需要支援策が陥りやすい構造的な罠

ヘルプ・トゥ・バイが示した最も重要な教訓は、需要支援策のパラドックスだ。価格が高くて買えない人を助けるために補助を出すと、補助で購入できた人がいる一方で、補助が価格をさらに押し上げ、補助なしには買えない人の割合が増える。

このパラドックスが実現するかどうかは、供給弾力性によって決まる。

供給環境需要支援策の効果
供給が柔軟に増えやすい地域(郊外・地方)需要増に対応して建設が増え、価格は比較的安定。購入者が実際に恩恵を受けやすい
供給増加が構造的に困難な地域(都市中心部・ロンドン)需要増が価格増に転嫁。補助額が上昇幅に飲み込まれ、補助なしの購入者には恩恵が届かない

これは「設計ミス」というより「前提の失敗」だ。制度の根幹に「需要が増えれば供給も増やせる」という仮定があったが、その仮定が特定地域では成立しなかった。需要支援策を投入する前に、対象地域の供給弾力性を評価しなければ、意図した効果は生まれない。

もうひとつの罠は制度の政治的な終わらせにくさだ。制度が普及し購入者が増えると、終了時に価格下落が起きるリスクが生まれ、「被害者」が生じかねない。ヘルプ・トゥ・バイが当初の予定を超えて延長を繰り返したのも、この構造が背景にある。制度を開始するときに「制度が不要になる条件」と「段階的縮小のロードマップ」を設計しておかなければ、出口は政治的に閉じていく。


日本への示唆

ヘルプ・トゥ・バイの経験から読み取れる教訓を3点整理する。

1. 需要支援策の効果は供給弾力性で決まる 住宅取得支援・移住支援・購入補助など需要側に介入する施策は、投入先の地域・市場の供給制約を先に評価すべきだ。供給が柔軟に増える郊外・地方では価格安定のまま利用が進む可能性があるが、都心部では価格上昇への転嫁リスクが高い。「補助を出せば建設が増える」は供給制約が強い地域では成立しない。

2. 監督機関に実質的権限を与えない設計は批判の温床になる 制度に「監督機能がある」という外形を整えても、停止・変更の権限が政治家に集中していれば、それは形式的な抑制装置にとどまる。是正のトリガーを数値で明文化するか、是正権限と報告義務を同一機関に持たせるかして、監督を実効性のあるものにすることが求められる。

3. 需要支援策の出口設計を最初に決める 制度が普及し「需要の下支え」になった段階で終了すると価格下落を誘発しかねず、政治的に終わらせにくくなる。制度の開始時に「需要支援が不要になる条件」と「段階的縮小のロードマップ」を設計することで、出口を守りやすくなる。補助金・住宅購入支援を問わず、需要側に介入するすべての制度に共通する設計原則だ。


出典

よくある質問

Q. エクイティローンは住み替えの人でも使えましたか?

A. 2013年のフェーズ1開始から2020年の終了予定時点までは、初回購入者以外の住み替え希望者も対象でした。2021年から2023年の延長フェーズに入ると対象が初回購入者のみに絞られ、さらに地域別の物件価格上限が新設されました。また新築物件への限定は一貫して変わりませんでした。

Q. なぜロンドンでは住宅建設件数が増えなかったのですか?

A. 土地取得の困難さ、計画許可の遅延、建設コストの上昇、熟練労働者の不足など、需要をいくら積み上げても短期間では解決できない構造的制約が存在したためです。建設業者の立場では増産リスクを取らなくても需要増に乗じて価格を上げられるため、供給ではなく価格が上昇しました。

Q. 英国銀行はなぜ制度を止められなかったのですか?

A. 英国銀行(金融政策委員会)に与えられたのは年1回の報告書を作成する助言的役割のみで、制度を停止する実際の拒否権は財務大臣が保持したままでした。カーニー総裁自身が後にこの構造を認めており、「監視している」という外形はあっても実質的な制御機能は備わっていませんでした。

Q. 日本の住宅購入支援策も同じ価格押し上げリスクがありますか?

A. 供給が弾力的に増えない地域、特に都市中心部や人気エリアへ需要支援が集中すると同様のリスクが生じます。英国の教訓が示すのは、制度投入前に対象地域の供給弾力性を評価すること、そして監督機関に実質的な是正権限を与えることが重要だという点です。

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